バグっちとの出会いは、気づきを与えてもらえるものでした。
彼は仕事に対して、とてもひたむきで、一生懸命でした。
話すときも自分の心を見つめて一番適する言葉を選んでいました。
冗談を考えては笑わせようとしていましたが、ほとんどすべっていました。
そのすべっていることがおかしくて私は笑っていました。
彼はうけているのだと思って嬉しく思っていたことでしょう。
私は温かいものを感じていました。
バグっちはとても天然なので人に笑われてしまいます。
バグっち「自分の事で人に笑っていただくと幸せなんです。だって人が幸せになるのを見ると幸せじゃないですか!」
いつも一番適する言葉を選んでいたので、たぶんこの言葉は本心です。
「笑っていただくと幸せ」という心境についてですが、
これはお釈迦様が説かれた「無私」の境地に似てると思います。
「だって人が幸せになるのを見ると幸せじゃないですか! 」についてですが、
思っていても、相手もそう思っているはず、これは当たり前の事だから、ふつうだから、とここまで思えないとなかなか言葉にはできないものです。
真からこのような心で生きているから、言えるのではないでしょうか。
競争社会の中では、誰かが幸せになるということは、自分が不幸になると思いがちです。
ですから、この心境をキープするのは難しく、人の幸福を素直に祝福できない貧しい心になりやすいのです。
それを脱却させるために、幸福の量は限りがるものではなく、作っていけるものであり、そのためにも祝福できる豊かな心を持ちなさいと学んだことがあります。
私は人間はちりばめられたダイアモンドの原石だと思っています。
彼の姿勢や心がダイヤモンドの原石を光り輝かせて、人間的魅力になっていると思いました。
影響力のある人、権威ある人、社会的地位がある人は大きい原石で、大きい原石が光れば大きな幸福を創造するから、これが一番素晴らしいと思っていました。
でも、彼の人となりから、光り輝けば全く同じだけ素晴らしいということを知りました。
心の素晴らしさや生きる姿勢の素晴らしさは大きい小さい関係なく、地位だの上下関係などとは関係なく、等しく尊いのだと知りました。
そしてこの言葉を思い出したのです。
「国民(くにたみ)は宝なり」
それから私は宅急便の方にも、生協のお兄ちゃんにも敬意を感じ、幸せな思いになります。
ありふれた日常の中で、幸せを感じれるようになれたのです。だからこれからの人生はその部分、幸せに過ごせるのではないでしょうか。
心のキズも癒されるのではないでしょうか。
これまでの人生は過酷なもので、その中を生き抜くために感情と本心を押し殺し、心をコントロールして乗り越えるというものでした。
また、幸せは人に頼らず自分で努力して掴むものであり、人生も努力して自分で開くものだと思っていました。
傷ついていることもわからなかったほどです。
今は、感情と本心を蘇らせて心のコントロールはなるべくしないで、あるがままの自分でで幸せになりたいと思っています。
でも、どう生きればいいのかよくわかりません。今まで自分を殺して努力しないと幸福になれないと思っていたのですから。
しかし、彼を通して幸福になるための気づきを与えてもらいました。
そして、幸せは自分で掴むというものだけではなくて、与えてもらえるものもあるんだな、と気づきました。
そして、この言葉を思い出しました。
「神の愛は、人を介して届けられる。」
バグっちへ、
不器用さゆえにスムーズにできないこともあるかもしれません。
誤解をまねいてしまうこともあるかもしれません。
生きている以上、色々な悩みを持つかもしれません。
自信をなくしそうなときにはこのブログを読んでほしいです。
幸せになって
感謝を込めて 天野 めぐみ
2017.03.25