今まで、(1)、と(2)を取り組みました。
最後は、これです。
(3)愛する人が死んでしまうのではないか?という恐怖。
4年間の闘病の末、主人はガンで亡くなりました。
この間、主人が「死ぬかもしれない」という恐怖、を強く長く持っていました。
これも、双極性障害を発症してからなので、健康な時より、恐怖の度合いが何倍も強かったのではないかと思います。
悶だえ苦しんでいましたから。
このことについて、振り返ってみました。
(2)でも書きましたが、
「主人は素晴らしい人で、とても優しく、能力もあり、人間性も高い人だ。」
努力して愛する心を作り、努力して尊崇の念を作って、努力して信じ込みました。
いつか「本来の素晴らしい夫」が出現するはずだ、
いつか「幸せな状態になる」、と心の底から信じるように努力しました。
そして、これが主人の心を救う事になるはずだ!とも信じていました。
自分で、自分に洗脳した、という事でしょう。
だから、モラ夫だとは思っていませんでした。
今から思うとモラ夫でしたが。
厳しい言動を受けても、
「全て私が悪いからであって、主人は素晴らしい人なので、主人は何も悪くない」、
と思っていました。
私だけが悪いのだ、と。
ですから、主人を愛していたようなので、ガンになってからは、とても辛いものがありました。
ウツが悪化して、言いようのない、ものすごく厳しい恐怖が襲ってくるので悶絶していたのです。
廃人のようになっていました。
「死なないで!
どうなっちゃうんだ、怖い!」
私の回復期に民間療法を探し求めて、苦労してやってもらいましたが、まともにやりません。
説明して、説得しても、嫌がります。
私の言う事にはいつも異を唱えますので、この期に及んでこうなのかと思いましたが、これがだめなら、次はこれ、といった具合に、私は諦めませんでした。
命を助けたい!
先ほど書きましたが、心も救いたい!
幸せになりたい!
こんな思いを持っていたのです。
ここまで、思い出したので、考察に移行しました。
「死ぬのではないか、というのは死を恐れているという事。
では、主人が死ぬと不幸になる、という前提があるという事。
この前提は正しいのだろうか?」
という事を考えてみました。
主人が死なないで、夫婦の未来を得たとしても、辛いものになった可能性の方が高い。
一緒に老夫婦になってから、よりそって散歩したかったけれど、たぶん無理。
いつも、私の事は無視で、いなくなってしまい、私が探さなくてはいけなくなる。
毎回、疲れて、毎回、ストレスを感じていた。
会話も合わせるのが面倒。
価値観も信条も、あらゆるものが乖離している。
相容れるものがない。
私の事は否定、批判、モラハラ。
あの時、死んでくれなかったら、地獄だった。
心も離れ、喧嘩が絶えず、経済が崩壊、住む家もないかも。
家族も、家庭も崩壊。
それぞれが暗い未来。
落ちるところまで落ちるのが予想される。
「死ぬかもしれない」という恐怖は、生きていたら幸せだ、という前提に立っているが、その前提自体が間違っている。
死んでいなくなったら、淋しいから辛い、というのも違うかも。
生きていても、心が離れ、淋しい思いはするものであり、それどころではなく、敵対するようになるだろうから、地獄だったろう。
生きて、淋しい思いをするより、死んで淋しい思いをした方がいい。
主人と生活するためには、主人を良しと見なければ、家庭崩壊だったので、
洗脳までしましたが、これからは、そんな必要がありません。
洗脳のなかで、人を正しく見て、正しく判断していく事が下手になっています。
どうしても、いい方を強くオーバーに見ようとしています。
癖になってしまったのでしょう。
正常に戻していくつもりです。
それと未だに、自分にしてきた主人への洗脳が、まだ残っていると思います。
今回、見方に変化が起きた事で、また少し、洗脳が解けたのではないかと思います。
トラウマや悩みを克服するために、やったこと(1~3)
(1)「経済的な苦境に対する、恐怖体験を克服!」
(2)「モラハラ夫に私がしたのか?そうではない、夫に原因があった。」
(3)「愛する人が死んじゃうんじゃないか?という恐怖を克服!」
この、3つに取り組みました。
楽になりました。
この心境が持続するでしょうか?
さあ、トラウマが消え去るのでしょうか?
また、出てきたら、過去を振り返って、考察していきたいと思います。
双極性障害は医学では完治しませんが、
心の病気なので、このように心を癒していくことで、
治るのではないかと思っています。