2018.04.01
4月1日は主人の命日なのですが、一般的な先祖供養は納得いかないので、しませんでした。
私は、通常の先祖供養に疑問を持っています。
私たちが、線香を焚いて、お経をあげて、花を供えても、浮かばれていない先祖の心を天国的な心に変えるのは無理です。
どんな世界にいても、それは亡くなった人の、自己責任だと思います。
遺族が、供養をしたら天国、しなかったら地獄、というのはありえません。
生きていた時の、間違った思いと言動で、暗い心境になって、目の前に、暗い世界が展開して行く、それが地獄だと思っています。
この世にいても、心が暗いと、世界が暗く見えますが、あの世は意識の世界だから、もっと顕著に現れると思うんです。
お経を唱えても、生きていた時に意味が分からなかったら、死んでも分らない。
お経も言葉かもしれません。
言葉は言霊と言います。
言霊には力があるというけれど、
お経の、「節」「音の流れ」、よりも、
「感情を乗せた言葉の意味」、の方が力があるのだと思っています。
他の言葉でも、感情を乗せた言葉の意味、が仕事をするのだと思っています。
線香も釈迦時代では、お風呂に入る習慣がなくて、体臭を消すために焚かれていました。
浮かばれていない先祖が、天国に住するためには、
反省をして、
自分の間違いを知り、
謝罪をし、
厚生をして、
「自分で自分を正し、心境をあげる」のが本筋です。
心境があがったら、その心境に応じた世界が展開するのだと思います。
それが、地獄から天国に住むための、生き方だと思う。
自分で自分を救うのです。
遺族がが努力するのは違う。
線香やお経をあげる、という努力は、効果がないと思います。
遺族がやるべき供養は、
「真理に沿って、正しい思いと言動で生きて、幸せに暮らすこと。」
それを見て、浮かばれていない先祖が、自分の間違いを知り、厚生の道に入るのだと思う。
つまり、正しい、感化を与えるのが、先祖供養だと思います。
全て、浮かばれていない先祖の自己責任。
自助努力で天国に住するべき。
そう思うのです。
天国に住しているだろう、先祖に対しては、感謝の気持ちを伝えるというのが、供養になると思います。
感謝の心は、相手を幸せにするので、先祖も幸せにできると思うから。
私は、主人のモラハラに会っていました。
「限りなく耐えられない価値の低さ」を感じていました。
苦しい思い出は、薄れていき、主人は、もう架空の人物のようになっている時があります。
でも、心のキズや悔しい思い、トラウマは完全には消えません。
色々な、手を使って、随分克服し、楽になっていますが、まだ残っています。
怖いです。何でもない事でも、疑心暗鬼になり、あの恐怖が蘇ります。
さあ、これをどうしようか?
どういうやり方をやってみようか?と考えました。
結論は、逆説的ですが、その乗り越えたい、
「辛い思いに焦点を当てるのをやめる」、です。
希望や自他の幸福に、焦点を当てる方がいい。
私の、苦しい経験は、誰かに幸福になってもらうためのツールになるかもしれない。
この苦しみが、誰かの役に立つかもしれない。
こっちがいい。